Past Exhibition
Raum–one work
若林 奮
Daisy
2022.7.4 - 7.29
Daisy 1-A
1993
鉄、ベンガラ
154.0 × 66.0 × 66.0 ㎝
約二十年程以前のことになるが、その頃、私は自分の視覚について考え直してみようと試みた。そのきっかけとなる事情はいくつかあったが、その頃、急な環境の変化があり、それにともなう不自由な制約がおきてきたこと等による。私は大地に立って前方に目を向けそこにあるものを見る。これを私の基本的な姿勢としたのである。これを、方向を変えて繰り返すことになったのであるが、決して周囲全体ではなかった。例えば、旅行をする時、すでに 私は大きな制約を受けており、その時私が目を向ける方向は更に少なく、又、ものを見る姿勢はより明瞭になっているのである。その様な経験を繰り返すうち、私はそれまでの自分の視界に少しの奥行きを付け加えることになった様に思われた。私は彫刻を制作する時、ほとんど視覚の中で処理しようと考えた。触覚については、視覚に従属させ、なにげなくものに触れるような感覚は、観念的な要素として見ることの中に含めて考えることにしてみた。それは、彫刻の在り場所を狭い位置に置き、或いは可能性の小さい存在にしてしまう様にも思えた。例えば、遠方にこちらを向いた犬が居てそれと自分を結んだ直線の中に一本の彫刻があると考えるのである。後には、一本の線ではなく、上下左右に広がりを持つ空間に展開するのだが、その場合にも視覚は常に優先する。
この様なことになる以前、私は自分自身の周囲のあらゆるものにひと通り自分の視線を向けておくことが出来るだろうと考えていた。しかし、それは不可能なことであった。まず、長時間ものを見ることに専念するのは困難であり、普通の生活の中で常に選択する習慣がはたらくこと、更に全体的な視界の中に漠然とした触覚的なものがあり、それによって視界が妨害されると感じとれたからである。周囲を観察していて、否応なしに感じとれる漠然とした感覚的なものについて、それを消し去る様な努力をする必要はなかったが、周囲の全体的な量を知ろうとした時に、或いはそれを感覚的な量とみなした時に、私はその認識によって把握し、それをなにかしらの方法で彫刻に向けることは不可能と思われた。私は自分の眼で外側を見ているが、眼球は気体とその表面で接している。あらゆる外部のものが一体になってしまい、それが私の眼や身体の表面に接することになっていた。
私は、私の作品の中で視覚的なことを強調し、触覚的なものをそれに従属させる様に試みた。私は、自分の姿勢を基本的なものに限定し、視線と彫刻の位置を同化させることによって、ある程度、漠然とした触覚的なものを変化させて見ようと考えた。それは漠然としたものが消え去ったのではなく漠然としたものそのものの存在がはっきりしたのである。私はものを見るうえで奥行きが付け加わったことを知る。それは漠然としたもの自体に奥行きがあることになる。それと同時に、あるひとつのものが他のものよりはっきりと区別されて見えることにもなる。私にとって遠方のものがよく見えるということは、決してめずらしいことではないと知っているが、遠方に視線が進む過程に複雑な要素や構造が加わって、そこには想像を含んだ視覚への期待も持てると思う様になった。私は現在このことに関心を持っている。そこには、自分から最も遠い所の位置が想像のひとつになる。そこにあるものについて、又、その場所に自分の視覚がとどく過程についてしばらく考えてみようと思う。そこに表れる彫刻を DAISY と呼んでみようと考えている。
若林 奮
若林奮「I.W-若林奮ノート」(書肆山田、2004年)より
初出: 「Isamu Wakabayashi」展カタログ掲載独・英訳テクストの元原稿、1997年
マンハイム市立美術館・アーヘン・ルートヴィヒ・フォールム