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Past Exhibition

Printed Matters

河口龍夫

関係-本

2005.5.16 - 6.10

出品リスト

1. 熱(ニ冊組)1983 和紙 熱 革
2. 熱(ニ冊組)1983 和紙 熱 革
3. 熱(じゃばら)1983 和紙 熱 革
4. 青い線 1985 和紙 銅
5. 微少の緑青 1985 和紙 銅線
6. 種子のノートa 1988 鉛 種子
7. 種子のノートb 1988 鉛 種子
8. 関係-鉛の宇宙・生命 1998   
フロッタージュ/束見本 鉛筆 ボールペン 和紙 紙
鉛 銅(二冊組)
9. green book 1999 紙 色鉛筆 革
10. SUN FLOWER 1999 ゼログラフィー/紙
11. 関係-本 原色世界植物大図鑑 1992 鉛 植物の本 種子(たんぽぽ)
12. 関係-本 宇宙 1992 鉛 宇宙の本 種子(コスモス)
13. 関係-本 鳥類図鑑 1992 鉛 鳥類の本 種子(麻)
14. 関係-本 日本地図 2001 鉛 日本地図の本 種子(コスモス)
15. 関係-本 世界地図 2001 鉛 世界地図の本 種子(コスモス)

展覧会概要

「Printed matters 2005 河口龍夫 関係-本 」と題して、5月16日から6月10日まで河口龍夫の本形式の作品16点を展示いたしました。
河口龍夫は日本の現代美術において先駆的役割を果たしてきた作家です。1965年にグループ<位>を結成し前衛的な集団制作を発表したのちも、一貫した哲学的思考に基づく制作を行ってきました。その中で70年代に始まる「関係」シリーズは、今なお河口龍夫の中心的な主題であり続けています。
今回の展示作品のうち、いくつかの作品は今回のために新たに装丁されたものです。
なお、一部の作品は、来場者が実際に手にとって見られるよう展示されました。

吸い取り紙としての本

私の本としての作品は、吸い取り紙のような本である。と言っても、本の素材が吸い取り紙で出来上がっているのではない。本そのものが何ものかを吸い取る「吸い取り本」なのである。「吸い取り本」が吸い取っているのは、時間との関係である。あるいは時間の周辺に漂う時間の震えや時間がもつニュアンスのようなものである。したがって「吸い取り本」が吸い取ろうとしているのは、非物質や非視覚な何ものかに向かっているかのようである。と言うより吸い取った非物質や非視覚な何ものかが「吸い取り本」を形成しているのである。

これまでに「吸い取り本」が吸い取ったものはいかなるものであったかを検証してみようと思う。そのひとつは非物質な熱である。見る事ができない熱が見える本、つまり、本のなかを熱が通過してゆく時間を感得できる「熱の本」(1983~)である。次に吸い取ったのは、物質から発生した青い色、緑青である。物質である銅線が本のなかで美しい緑青の青い線へと変貌する時間の場を含んだ「緑青の本」(1985~)である。さらに、「吸い取り本」は生命の吸い取りへと向かう。「熱の本」と「緑青の本」が和紙のなかでの出来事であったが、この場合は鉛のなかでの出来事となり、吸い取り鉛としての本となる。種子が二枚の鉛で各頁封印され、封印された種子による未知なる未来との対応が、封印されたままけっして聞くことができない生命のこだまとなった「鉛の本」(1988~)である。生命の吸い取りは、別の「吸い取り本」を発生させる。それは、植物が植物として成長する以前の、あたかも私たちの赤ん坊の時期の写真のように、種子が一粒一粒コピーされ、コピーされた種子の痕跡が重層されることによってできたもうひとつの生命の本であり、誕生の予感を内包したかのような「複写された種子の本」(1999~)である。

「吸い取り本」は、ときには宇宙におけるブラックホールのように、本そのものをも吸い取ってしまう。本はすべて鉛で覆われてしまうからである。したがって内容を見ることも読むこともできない「鉛で封印された本の本」(1992~)である。すでに鉛で封印された本は、宇宙の本、植物図鑑、鳥類図鑑、日本地図、世界地図、そして、26冊の百科事典等がある。あたかも世界そのものを吸い取り、「吸い取り本」による鉛で封印された本の図書館をつくろうとしているかのようである。

出版予定の本の雛形として作成された束見本と言うのがある。その束見本を使用した本の作品がある。束見本に描かれたドローイングの本である。それらの本は言語を超えて連続的に思惟する場としてのドローイングによる「思考時間の本」(1996~)である。また束見本は本の作品として別の表れ方をする。先に述べた生命の吸い取り本の一環として、死の吸い取りとしての本である。死の物質化のひとつの比喩的な表れとしての昆虫の死骸による本で、昆虫学と命名された本である。この本は内部を見ることは出来るが頁を捲ることはできない。何故ならすでにこの本は、本自体が死んだ昆虫の棺桶か墳墓となっているからである。あたかも死を吸い取り墓となったような「昆虫学の本」(1999~)である。同様の形式で、植物の種子や花弁を本に吸い取り閉じ込めた植物の本がある。この本は植物学と題され、あたかも本が、吸い取られた植物のための大地や畑や農園となっているかのような「植物学の本」(1999~)である。

私の本としての作品を「吸い取り本」ととらえてみたが、吸い取るだけで完結してしまうのでなく、「吸い取り本」を見る人との時間と空間での新しい関係の発信物となってほしいのである。

本は言語により思考を論述するのが常であるが、言語を超越する時、本は芸術の世界と関係し芸術をも吸い取る。そのとき「吸い取り本」は、言語が役に立たない世界への入り口としての「芸術の本」となるのである。

河口龍夫