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Past Exhibition

Printed Matters

Francis Bernard

オリジナル ポスターと記録のためのフォトスタット

2009.4.9 - 5.8

出品リスト

Ⅰ. ポスター(全てリトグラフ、裏打ち済み)

1. 「ワイン・ニコラ」(Nicolas fines bouteilles) 144.2x226.3 cm
2. 「ガスの広告」(Gaz)118.8x158.2 cm
3. ブルターニュ航海」(Croisière en Bretagne)62.8x100.4 cm
4. 「家庭用具」(Arts Ménagers 1930)113x152 cm
5. 「シブール土地案内」(Extension de Ciboure)104x157cm
6. 「アエロシェルオートバイオイル」(Aeroshell pour moto)78.3x115.3 cm
7. 「ブラックアンドベッカー(道具製造会社)」(Black et Decker)120.8x159.3 cm
8. 「モロッコの旅に出よう」(Visitez le Maroc)62x100 cm
9. 「チュニジア観光 45」(Exposition Tunisie 45)27.7x40 cm

Ⅱ. フォトスタット (65点)

Ⅲ. 雑誌「ACIER」

Biography

マルセイユに生まれる。当地の美術学校と商業学校、次いでパリの美術学校に通う。 1927年 ポール マルシアル社 (出版社兼広告代理店。大きな印刷工房を持ち、ベルナールはそこ に専用アトリエを持っていたようだ。)と契約。
1930年 サロン デ ザール メナジェ(Salon des Arts Ménagers)の美術を担当し、1950年頃まで続ける。 同年、UAM (注1)設立、創始者ヘルブツ(Herbst) から参加を呼びかけられる。この頃から1937、8年までベルナールの盛んな制作の時期が続く。
UAMと関わりの深いOTUA(注2)発行の 雑誌「ACIER」、「FER BLANC」の表紙をカッサンドルと交代で担当、(OTUAのロゴはベルナール作、アートディレクターとして本文レイアウトも彼が担当した可能性が強いが 確証なし。)おなじく有名ワイン専門店ニコラ発行の冊子にカッサンドル、カルリュと並んで広告を制作、アール・メチエ・グラフィック誌(フランス)、モダン・パブリシティ誌(アメリカ) に頻繁にその広告作品が紹介された。
1945年 RTF(ラジオ・テレビ・フランス)の広告部部長に任命。国際連合グラフィック(Alliance Graphique Internationale)開催の展覧会] に続けて作品を発表する。
1957年 ミラノ・トリエンナールで栄誉免状を受ける。

フランシス・ベルナールはカッサンドルのようにアーティストとして華麗なキャリアを踏まな かった。まったくの仕事人で自分の名をしらしめる努力をしなかった上、プライヴェートに関する出来事はほとんど謎につつまれている。
戦後カッサンドルが展望を見失ったほど流行スタイルが激変した時もベルナールはうまく順応し、黙々と仕事を続け、1000点ともいわれるポスター作品を制作した。とは言え、その仕事の代表的なものは戦前に集中する。戦後、RTFの仕 事に力を注いだからだ。

カッサンドルやポール・コラン、ジャン・カルリュのような知名度がなかったベルナールのポスターは現存するものが少ない。今回紹介するコレクションの中心は1978年ころポール・マルシアルの大工房が閉鎖された折に処分されるところを救い出したもので、特にフォトスタット(注3)版の下絵は現存するフランシス・ベルナールのポスター作 品に関する唯一の資料と言える。これらのポスター、資料の制作年代は1930から37、8年ころのものである。

注1) UAM = Union des artistes modernes(現代芸術家組合) 1929年にRené Herbst(ルネ・へルブツ)よって設立された建築家、デザイナーの運動団体。 参加者は公汎に渡り、Robert Mallet-Stevens、 Le Corbusier、Pierre Jeanneret (建築)、創始者Herbst(建築、総合デザイン)、Francis Jourdain、Jean Prouvé (総合デザイン)、Charlotte Perriand (インテリアデザイン)、André Lurça(画家)、Jean Puiforcat (彫金)、そしてグラフィックデザインはFrancis Bernard、Paul Colin、Jean Carlu、A.-M. Cassandreとで構成された。 現代に呼応した総合デザインを目指すフランスの団体で、学校は持たなかったが、建築を含めた総合デザインを考える姿勢にはドイツのバウハウスと呼応する部分がある。 UAMは当 時新しく登場した鋼鉄をはじめとする諸金属に注目した。OTUA (Office Technique pour l'Utilisation de l'Acier)の発行する専門家用雑誌 "Acier"、"Fer Blanc" (企画・マルシアル出版)は 表紙をFrancis BernardとCassandreが担当した。 1958年に解散。

注2) OTUA=Office Technique pour l'Utilisation de l'Acier (鋼鉄技術斡旋事務局) 技術開発の進む鋼鉄を様々な分野に応用することを目的とし、1929年設立。現存する。 専門家用雑誌 "Acier"、"Fer Blanc"を発行し、関係者に無料で配部した。彼らが鋼鉄の技術開発をし、その情報を伝達したのがUAM+マルシアル出版だったと言えるだろう。1930 −40年ころはまさに手に手を取った活動だった。

注3) PHOTOSTAT=フォトスタット 1900年初めに開発されたコピー技法で、PHOTOSTAT社によって普及したためその総称となる。 ゼロックスの前身となる機械で、内部に現像機 能を持ち、銀塩光感剤を施した台紙にプリントされた。コピー機なので原稿さえあれば無限に複製を作ることが可能である。 フランシス ベルナールのフォトスタットについては、もともと 原稿を保存しないためにコピーしたものであり、本人使用分に1−2部作っただけと推測される。また、ネガティフはカメラ撮影と違ってコピー機内部に組み込まれているため使用が終われば処 分される。 これらがジェラチンシルバープリントであることで画像は経年の衰えがなく、質が高い。フランシス・ベルナールの下絵は大半がB全と大きかったため、制作された下絵は稀な例 をのぞいて全てフォトスタットの形で保存され、下絵は順次破棄された。

フォトスタット (Photostat)

1900年代初めに開発された複写技術で、フォトスタット社により普及したためその総称で呼ばれている。
フォトスタットは、カンザス・シティーのオスカー・グレゴリーにより1907年に発 明された。1911年にはフォトスタット社をロードアイランドに設立、1921年に工場と事務所をロチェスターに移転する。同社はイーストマン・コダック社の系列会社であったが、1963年にItek 社に合併吸収された。 現在、コピーをすることを「ゼロックスする」というのと同じように、当時コピーすることを「フォトスタットする」という人々もいたほど普及していた。このよう な写真複写機は、1959年に静電気を利用したゼロックス社による事務用普通紙複写機に取って代われるようになる。
また、フォトスタット社より数年早く、オクラホマ・シティーの Rectigraph社が1906年または1907年にカメラを組み込んだ写真複写機を製造している。後に同社は、印画紙や薬品の取引先のハロイド社に近いニューヨークのロチェスターに移転する。さらに 1935年にはハロイド社と合併することになる。このハロイド社は1958年にハロイド・ゼロックス社と改名し、さらに1961年にゼロックス・コーポレーションと社名変更する。このRectigraph Machineは1960年代まで販売されていた。
フォトスタットの仕組みは一言でいえば巨大なカメラと現像機を内蔵した複写機である。文書や書類などの原稿を撮影し110メートルもある巨大な 銀塩感光剤を施した印画紙のロールに直接露光される。約10秒間露出された後、紙に直接焼き付け、定着され、自然乾燥または機械で乾燥される。この結果ネガプリントができあがる。これら の行程には約二分を要した。このネガプリントを原稿にし、同じ過程を繰り返せばポジプリントが出来上がる。また、複写機なので原稿さえあれば無限に複製を作ることが可能である。
フ ランシス・ベルナールのフォトスタットは、原稿を保存しないため本人使用分として1,2部作っただけと推測される。ベルナールの下絵は大半がB全版と大きかったため制作された下絵はまれ な例を除いて全てフォトスタットの形で保存され、下絵は順次破棄されたとされる。ただフォトスタットは、ゼラチンシルバープリントであるため画像は経年の劣化が少ない状態でのこされて いる。